こんにちは。
野郎です。
今日は赤子が手足をバタバタしているなーという話です。
赤ちゃんが産まれてきてそろそろ2ヶ月半になりました。
10週間です。
お加減いかがですか?とかだいぶ慣れたのじゃないですか?などと話しかけています。
・・・先方からの返事はまだありません。
最近は会話まではいきませんが、シグナル交換ができるようになっています。
ウーとかアーとかですが、十分です。
あのさ、赤ちゃんってさ、なんだか手足をバタバタしてるのね。
もうね、ひっきりなしにしているのだよ。
知らなかった。
何かを取るとか触るとかなくて、ホントにただパタパタしている。
不随意に動いているように見えるなー。
このパタパタで頭の中のいろんな接続を作って、最終出力のパタパタとの間をつなぐのだろうか。
身体操作を学ぶってこういうことなのだろうか。
脳細胞の数がガクッと落ちるのって生後の話だったっけ?
この辺のことと関係あるのだろうか。
あとさ、手とか握ったり、お腹ポコポコしたり、腕掴んで万歳してもさ、なんだかこう分かってんのかなっていう反応なのね。
なんというか、自分の体が触られているのわかっていないんじゃないかな。
すごく不思議。
だってさ、五感のなかでも、触覚の不自由ってごく少ない気がしない?
以前に痛覚が欠落している人の話を読んだことがあるけど、そのぐらいしか思いつかないや。
触覚ってかなり感覚のベースのところだと思っていたんだけど、どうなんだろう。
痛いとかは分かるみたいだけどね。
いまのところ痛い現場に遭遇したことがないからわからないけど、遭遇した人によるとかなり泣いていたらしいから。
痛みがない人ってさ、痛くないからすっごい怪我とかしちゃうんだって。
自分の身体に危険が及ぶことをいちいち学習しなきゃいけないみたい。
大変そうだったよ。
でさ、さっきの自分の体が触られているかわからないのではって話なんだけど、このころの身体感覚ってどうなっているのだろう。
たぶん、いまは多くの人が「自分」の範囲を自分の肉体的な外皮を境界だと考えていると思うの。
それは野郎も同じね。
けど、むかーーーーし栗本慎一郎さんの本で読んだんだけど、身体感覚って時代とか地域で変わるんだって。
例えばね、身体感覚が自分の家まで広がっていたり、村全体までを自分の中と考えていたりしたみたい。
ちょっと想像つかないけどね、そういうことを研究している学問分野があるって書いてた。
どうやって調べるのだろうね。
栗本さんは一度読んでほしいっす。意味と生命(絶版だ!)とパンツをはいた猿猿シリーズがおすすめー。
野郎も武器の練習とかしてて、確かに先端まで意識が乗るもんなと思ったりします。
人の身体感覚は意外とゆるいのかもしれないね。
幻肢とかあるじゃない。
腕とかを後天的に無くした人の、亡くなった部位が痛いとか痒いとか。
コレも似たような話だよね。
栗本さんが自分が脳溢血で倒れて開発した(先行研究をみつけたのかも)鏡を使ったリハビリの方法があって、この治療?症状を改善することに使っていた気がする。
人のアタマとかカラダって不思議だなー。
心がどこにあるかって話も面白いんだけどさ、体の話も面白いよね。
(仏教とかでガンガン瞑想とかした人は、心は胸にあると確信しているらしい。なぜなのか。理由が知りたい。)
中世の頃の話でさ、いや、今もあるのかな、魚が空からいっぱい降ってきたって記録があるじゃない?
知ってるかな。
文献が残ってるからだと思うけど、中世の欧米で記録が多い気がする。たぶん。きっと。
これってさ、さっきの村のキワまで自分の身体感覚が及んでいる人にとってはどう感じられたのだろう。
ぜひ感想を聞いてみたい。
話しがそれまくったけど、赤ちゃんはだいぶんとしっかりしてきて、そろそろ首がすわるのかな。
首や背骨、腰がしっかりしてきたら、寝返りを打つのだそうです。
そして、はいはいをすると。
立つのはその後だって。
すごいもんだ。
今年の秋田県大館。寒かったなー。
木に雪が乗ってるのって、ホントに綺麗だよね。好物です。